自分にとって感性とは何か、一般的な定義の収集を通して考察したい。日本の代表的な辞書の一つである『広辞苑』には「外界の刺激に応じて感覚・知覚を生ずる感覚器官の感受性」、「感覚によって呼び起され、それに支配される体験内容。従って、感覚に伴う感情や衝動・欲望も含む」、「理性・意志によって制御されるべき感覚的欲望」、「思惟の素材となる感覚的認識」とある。こうした意味の説明の冒頭には、sensibilityという英語、 Sinnlichkeitというドイツ語が記載されており、「感性」という日本語は翻訳語であることが分かる。

『大辞林』には「外界からの感受能力であり、悟性を経て認識に至る。または理性より下位とされる。物事に感じる能力、感受性」であり、『新明解国語辞典』には、外界の刺激に応じて何らかの印象を感じ取る、その人の直感的な心の動き」とある。また、哲学者のカントは『純粋理性批判』で、「悟性的な認識の基盤を構成する感覚的直感表象を受用する能力」としている。このように感性が受動性を強調されているのは、感性をめぐる哲学的な考察が、欧米起源の理性的認識を基準にして考えられてきたからではないだろうか。理性-感性や知性-感性といった対照的に位置付けられ、制御されるべき、または素材ということなのだろう。

感性という言葉はすでに日本語の中に定着している。それが理性や悟性さらには知性と対比的な位置を与えられた言葉だという、西洋哲学的な意味を意識することはあまりない。そのため、日本人は、感性が知性の働きを補うとか、感性と理性の調和が重要だ、などと考えてしまうのだろうか。哲学者の桑子は『感性の哲学』で、感性を「環境の変動を感知し、それに対応し、また自己のあり方を創造してゆく、価値にかかわる能力」と捉えている。感性を能動的、創造的な能力だというのである。そして、「身体の配置」と「空間の履歴」という基礎概念を設定し、人間を「履歴をもつ空間での身体の配置」と捉える。

哲学者シュスターマンは『身体感性論(somaesthetics)』において、身体を感性的受容と創造的自己形成の場と捉えている。知識は感覚的知覚に依拠しており、感覚は身体に属すというのである。例示するのは、感情の気づきを改良し、身体的経験を洗練させることによって鋭敏な感覚を持ち、感覚の機能が高められた身体である。感性という人間の能力が働くとき、それは表現や技能という具体的な営みを通さざるを得ないのであり、表現や技能という営みは、人間の具体的な身体的経験にほかならないというのである。

ナチスによってドイツを追われ東北大学で教えたレーヴィットは、『ヨーロッパのニヒリズム』で「1936年の日本人の思想状況は、まるで二階建ての家に住んでいるかのようだ」と指摘している。「一階には日本人として感じたことが、二階にはプラトンからハイデガーにいたるまでのヨーロッパの学問が並べてある。日本人が一階と二階を行き来する梯子はどこにあるのだろうか」と疑問を述べているのである。日本人にとって理性-感性、知性-感性は、対照的に両契機を対比するものではない。例えば、感性と理性の調和といえば、理性が感性を制御していて秩序を作るということではなく、両契機がバランスを取りながら共存することである。

以上のことから、感性とは受動的な感受性のようなものではなく、「価値にかかわる能動的で創造的な能力、環境と自己の関わりを把握する能力」だと考える。人は無から何も生み出せない。最初に感受性があり、経験によって蓄積された潜在意識下のイメージが結びつきながら表出される課程のことである。それが純粋な形で結晶化される文化の領域が芸術なのだが、その表現は、我々が生きることのあらゆる局面に見出すことができる。感性は身体的トレーニング(体育ではない)により育まれ、経験に左右され、アウトプットが変わっていくものである。