「ゆるキャラ」を面白いと思う理由は、ストレス社会を生きる現代人の、精神のバランスを取っているお守りとなっているからである。「ゆるキャラ」は、「ゆるいマスコットキャラクター」を略したもので、イベント、各種キャンペーン、地域おこし、名産品の紹介などのような地域全般の情報PR、企業・団体のCIなどに使用するマスコットキャラクターのことである。
「ゆるキャラ」には、「きもカワイイ」と表現されるものが多い。例えば、物議をかもした、仏様に鹿の角をつけた奈良の「せんとくん」がある。「きもかわいい」は2005年頃、お笑い芸人のアンガールズをきっかけに広まった言葉で、「気持ち悪い」と「可愛い」を合成したものである。本来はプラスとマイナスで対立している言葉を結びつけてできた新概念と言える。通念上「可愛い」の隣におかれるのは「美しい」だが、実のところは「醜い」ではないかという説がある。例えば赤ちゃんは「かわいい」と誰もが言うが、よく見ると大きすぎる顔と小さすぎる体を持った存在である。畸形と逸脱した体を「かわいい」と見なす薄皮の約束事があり、だからこそ人は「かわいい」と思うのである(『「かわいい」論』四方田犬彦)。「醜い」や「気味悪い」は、「かわいい」と対立するイメージではなく、互いに牽引し依存し合って成立しているというギャップがとても面白い。日本人の感性は、「ゆるい」、「きもカワイイ」という、何か不完全で劣っている存在、未成熟なキャラに特別の心地よさや心理的な親密を感じるのである。
例えばディズニーのキャラクターは喜怒哀楽がハッキリしていて、アメリカ人の本質を隠喩的な形で表現しているのに対し、ハローキティに代表される日本のキャラクターは、人間らしさを強調することは目指しておらず、人間に隣接した換喩的存在である(『キャラクター精神分析』斎藤環)。無表情だから自分の思ったことや感じたことにいつも同意してくれる。嬉しいときには一緒に嬉しがってくれ、悲しいときには一緒に悲しんでくれる。親密な存在として感情移入できる、犬や猫といったペットとの関係に非常に近いのである。「ゆるキャラ」は日本で主流を占めている伝統的・換喩的キャラの21世紀バージョンである。この欧米のキャラとのギャップが面白い。
欧米のキャラクターのようなストレートな表現は、人間的にコミュニケーションをとることから共感性が高く、感情的かつ精神的な絆を持ちやすい。現実世界での人間とのコミュニケーションに近く、人間関係が連続してしまうので、安らぎを得られないどころかストレスを感じてしまうのである。現代の日本人は、他者から心の中に深く入り込まれるような、近すぎる関係を厭う心理が顕著である(『87%の日本人がキャラクターを好きな理由』香山リカ)から、「ゆるさ」は精神のバランスを取るために必要となっている。個人を主体に自らの責任で自己を確立していくときに必ずぶち当たるのが「なりたい私」と「なれる私」、「やりたいこと」と「やれること」といった、願望と能力との乖離である。人は概してこうした困難にぶち当たったときに、精神的な支えを必要とする。神に支えてもらうのも選択肢の一つである。欧米ではキリスト教に代表される一神教の全知全能神だが、日本の土着的文化においては、お地蔵さまや道祖神とのような弱い存在となる。日本のキャラクターは、価値を保証する絶対権威なき時代のお守りや、守護神のような存在になっている。欧米の神は自分より圧倒的に上で、例えるなら偉いお父さん。お地蔵さまや道祖神のような弱くて小さい神様は、親しみやすく癒やしてくれる赤ん坊や子供のような存在なのである。特に「ゆるキャラ」が「ゆるい」ということは、子供であるという意味でもある。「ゆるキャラ」の2頭身や3頭身に、象徴としての子供が現れている。その子供のような存在が動物やモノを擬人化したものだというところが、先進国の中でも珍しくアミニズムを持つ日本人を現しているのである。生物と非生物、人と物の線引きが厳然と存在する欧米と違い、両者の間に梯子がかかっている日本人の感性が実感できる「ゆるキャラ」は、とても面白いのである。